桶狭間の戦いを地図で見る

永禄3年5月19日(1560年6月12日)|尾張・清洲〜鳴海〜桶狭間

桶狭間の戦いの動く地図 清洲城から熱田・鳴海・桶狭間までの地形と当時の海岸線、織田信長・今川義元・松平元康の動きを示す簡略図。各場面の内容は地図の下(または横)の本文に同じものがある。 駿府から(直線で約125 km)朝比奈泰朝が攻める今川本陣(位置は推定)にわかの豪雨義元 討死(場所は諸説)岡崎城へ(直線で約24 km) 尾張東部の丘陵伊勢湾(当時の海。おおよそ)庄内川五条川天白川扇川 清洲城熱田丹下砦善照寺砦中島砦鳴海城鷲津砦丸根砦大高城桶狭間山(今川本陣。推定)桶狭間古戦場(伝説地・公園)沓掛城 織田信長今川義元松平元康

永禄3年5月19日(1560年6月12日)

桶狭間の戦い

織田信長 対 今川義元

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  1. 永禄3年(1560)5月12日、駿河・遠江・三河を治める今川義元は、大軍を率いて駿府を出た。兵の数は2万5千とされることが多いが、『信長公記』は4万5千と書き、確かな数は分からない。

    尾張との国境では、今川方の鳴海城と大高城が、織田方の砦に囲まれていた。鳴海城には丹下・善照寺・中島の砦が、大高城には丸根・鷲津の砦が向き合っていた。

    18日、義元は沓掛城に入った。その夜、松平元康(のちの徳川家康)が、囲まれていた大高城に兵糧を運び入れた。清洲城の信長は、この夜は軍議を開かず、世間話をして家臣を帰したと『信長公記』は書く。

    諸説・分かっていないこと

    • 兵の数(2万5千は後世の数え方による。『信長公記』は4万5千と書くが、多すぎるとする見方が多い)
    • 義元の目的は、京へ上ることだったとする説(江戸時代から広まった)と、尾張を押さえることだったとする説がある
    • 元康が大高城へ兵糧を運んだ道筋は分からない(地図の点線は模式)

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)・『三河物語』(後世の編纂物)

  2. 19日の夜明け、今川方は大高城を囲む織田方の砦に攻めかかった。丸根砦は松平元康が、鷲津砦は朝比奈泰朝が攻めた。

    丸根砦を守った佐久間盛重、鷲津砦を守った織田秀敏・飯尾定宗らは討死し、砦は朝のうちに落ちた。熱田に着いた信長は、砦の方角に煙が上がるのを見たと『信長公記』は書く。

    諸説・分かっていないこと

    • 砦を攻めた時刻と、攻めた武将は『信長公記』『三河物語』などによる。守っていた兵の数は分からない

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)・『三河物語』(後世の編纂物)

  3. 砦が攻められたと聞いた信長は、幸若舞「敦盛」の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」を舞い、具足を着けて、立ったまま食事をとり、わずかな供だけで清洲城を飛び出したと『信長公記』は書く。

    熱田に着いたころ、鷲津・丸根の方角に煙が上がっていた。信長は熱田で、後から追ってくる兵を待った。

    諸説・分かっていないこと

    • 清洲から熱田までの道筋は分からない(地図の点線は模式)
    • 城を出たときの供は、小姓衆の 5〜6 騎だったと『信長公記』は書く

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)

  4. 熱田から鳴海へは、浜沿いの道なら近いが、潮が満ちていて馬が通れなかった。信長は上の道を通って丹下砦、善照寺砦に入り、追いついた兵をそろえた(『信長公記』)。

    信長はさらに前の中島砦へ移ろうとした。中島への道は両側が深い田で、一騎ずつしか通れず、兵の少なさが敵から丸見えになると家老たちは止めたが、信長は振り切って中島砦に入った。

    このころ今川義元は、沓掛城から進んで、桶狭間山で休んでいた。

    諸説・分かっていないこと

    • 今川本陣の「桶狭間山」がどこかは分かっていない。地図の位置は推定
    • 善照寺砦に集まった織田の兵は 2 千〜3 千とされる

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)・現代の研究(正面攻撃説など)(現代の研究)

  5. 信長が中島砦を出て山際まで進んだとき、にわかに激しい雨が降り出した。石や氷を投げつけるような雨が今川方の顔に吹きつけ、沓掛の峠の楠の大木が東へ倒れたと『信長公記』は書く。

    雨が上がると、信長は槍を取って大声を上げ、今川の本陣へ攻めかかった。今川方は崩れ、義元の旗本は退き始めた。

    諸説・分かっていないこと

    • 信長が北の山へ回り込んで奇襲したとする迂回奇襲説は、江戸時代の『甫庵信長記』などで広まった。いまは『信長公記』をもとに、正面から攻めかかったとする説が有力だが、決着はついていない(地図の点線は正面攻撃説による模式)
    • 雨は雹だった可能性がある(『信長公記』の「石氷を投げ打つ様に」から)

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)・小瀬甫庵『信長記』(甫庵信長記)(後世の編纂物)・現代の研究(正面攻撃説など)(現代の研究)

  6. 義元は旗本に守られて退いたが、織田方は追いすがった。服部小平太が義元に斬りかかり、毛利新介が義元を討ち取ったと『信長公記』は書く。

    総大将を失った今川軍は崩れ、駿河へ退いた。鳴海城の岡部元信は城を守り続け、のちに義元の首と引き換えに城を明け渡したと伝わる。

    諸説・分かっていないこと

    • 義元が討たれた場所は、豊明市の桶狭間古戦場伝説地と、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園の 2 か所が伝わる

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)

  7. 大高城にいた松平元康は、義元の死を知ると城を出て、三河の岡崎城に入った。元康はやがて今川から離れ、永禄5年(1562)ごろ信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。

    東の守りを固めた信長は美濃の攻略に力を注ぎ、永禄10年(1567)に稲葉山城を落とした。織田と徳川の同盟は、15年後の長篠の戦いでも続いていた。

    諸説・分かっていないこと

    • 清洲同盟の年と、元康が清洲城を訪ねて会見したかどうかには諸説ある

    参考にした資料: 『信長公記』首巻(同時代の記録)・『三河物語』(後世の編纂物)

参考にした資料

同時代の記録(事件のころに書かれたもの)と、後世の編纂物(江戸時代以降にまとめられたもの)を区別して示す。後世の編纂物だけに見える話は、本文で「伝わる」「とされる」と書いた。

  • 『信長公記』首巻同時代の記録
    信長に仕えた太田牛一の記録。首巻は上洛より前の出来事をまとめた巻で、桶狭間の戦いの経過・天候・兵の数を詳しく書く。のちに聞き取りや記憶をもとにまとめた部分を含む
  • 『三河物語』後世の編纂物
    徳川家の家臣・大久保忠教が江戸時代の初めに書いた記録。松平元康(のちの徳川家康)の側から見た桶狭間の戦いを書く
  • 小瀬甫庵『信長記』(甫庵信長記)後世の編纂物
    江戸時代の初めに『信長公記』をもとに書き直した軍記。脚色が多く、迂回奇襲説や簗田政綱の功の話はここから広まった
  • 現代の研究(正面攻撃説など)現代の研究
    1980 年代に藤本正行氏が『信長公記』をもとに、信長は迂回せず正面から攻めかかったとする説を唱え、いまは有力な説の一つになっている。今川本陣の位置・今川軍の目的にも諸説がある

地図は簡略化した図で、海岸線・川・丘陵は当時のおおよその姿、位置はおおよそ(点線は史料に道筋の無い推定・模式の区間)。今川本陣の位置は推定。映像の兵の姿・信長の突撃の道筋・今川の領国の範囲は模式で、3D の高さは 3 倍に強調。標高: SRTM data courtesy of the U.S. Geological Survey(AWS Terrain Tiles)。肖像と接近戦の絵は AI で生成したイメージ。読み上げ: VOICEVOX:玄野武宏(CV:ガロ)。

桶狭間の戦いをもっと知る本

漫画・ポプラ社(コミック版 日本の歴史 7)

歴史を変えた日本の合戦 桶狭間の合戦

加来耕三(企画・構成・監修)・すぎたとおる(原作)・やまざきまこと(作画)

今川義元・織田信長・松平元康(のちの徳川家康)の 3 人を軸に、桶狭間の合戦を描く歴史まんが。この映像の登場人物を、まんがでじっくり追える。

漫画・KADOKAWA(角川まんが学習シリーズ)

日本の歴史 8 天下統一の戦い 安土桃山時代

山本博文(監修)・ひらぶき雅浩(まんが)

織田信長・豊臣秀吉が天下統一へ進んだ時代(安土桃山時代)を描く学習まんが。信長の天下取りの流れを、時代の中で通して読める。

価格・在庫・販売元はリンク先で確かめてください。

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