本能寺の変を地図で見る

天正10年6月1日夜〜2日(1582年6月20日〜21日)|丹波亀山・京・近江

本能寺の変の動く地図 丹波亀山から京・近江までの地形と、明智軍・織田信長・織田信忠の動きを示す簡略図。各場面の内容は地図の下(または横)の本文に同じものがある。 堀川油小路西洞院新町室町烏丸二条押小路御池姉小路三条六角蛸薬師錦小路四条 備中高松城(直線で約180 km 西)で秀吉が毛利方と対陣中右の道:山崎・摂津へ(中国への道)信長 自害(遺体は見つからず)信忠 自害未の刻ごろ、吉田兼見が光秀と会う橋が焼き落とされていた安土城へ(6月5日に入る) 西山北山東山比叡山逢坂山・音羽山琵琶湖保津川桂川鴨川瀬田川京 丹波亀山城愛宕山老ノ坂沓掛桂川の渡り本能寺妙覚寺二条御所内裏粟田口山科大津瀬田橋坂本城 明智軍織田信長織田信忠

天正10年6月2日(1582年6月21日)

本能寺の変

明智光秀 対 織田信長

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  1. 天正10年(1582)5月29日、織田信長は安土城を出て京に入り、本能寺を宿所とした。連れていたのはわずかな供の者で、軍勢は伴っていなかった。嫡男の織田信忠は、本能寺の北東にある妙覚寺に泊まっていた。

    このころ羽柴秀吉は備中高松城(岡山市)を囲んで毛利方と向き合っており、信長は明智光秀らに中国への出陣を命じていた。光秀は居城の近江坂本城から丹波亀山城(京都府亀岡市)に移り、出陣の支度を整えていた。

    ほかの織田家の主な軍勢も、各地に出ていた。柴田勝家は越中(富山県)で上杉方の魚津城を攻め、滝川一益は武田氏を滅ぼしたあとに与えられた上野(群馬県)にいた。三男の織田信孝と丹羽長秀は、四国へ渡る軍勢を摂津(大坂)に集めていた。徳川家康は安土で信長のもてなしを受けたあと、わずかな供で堺を見物していた。

    6月1日、本能寺には公家衆が挨拶に訪れている。京の信長の周りには、戦えるまとまった兵がいなかった。

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・『言経卿記』(同時代の記録)

  2. 6月1日の夜、光秀は軍勢を率いて亀山城を出た。兵の数は「1万3千」とされることが多いが、これは江戸時代の軍記に見える数字で、確かな数は分からない。

    備中へ向かうなら西へ進むところを、明智軍は東の老ノ坂へ向かった。『川角太閤記』は、兵たちには「出陣の前に京で信長の閲兵を受ける」と説明されていたと書く。兵の多くは、行き先の本当の目的を知らされていなかったと考えられている。

    諸説・分かっていないこと

    • 兵の数(1万3千は江戸時代の軍記の数字。根拠となる同時代の記録は無い)

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・『川角太閤記』(後世の編纂物)

  3. 亀山から京へは、山陰道で老ノ坂を越える。『信長公記』は、老ノ坂を上ると、右へ行けば山崎・摂津へ通じる道、左へ下れば京へ出る道で、明智軍は左へ下ったと書いている。

    中国へ向かうのであれば、右の道を取ることもできた。左を選んだことで、行き先は京になった。峠を下った沓掛で、軍勢は休んで腹ごしらえをしたと伝わる。

    諸説・分かっていないこと

    • 亀山から京への道は、老ノ坂越えのほかに、唐櫃越え・明智越えを通ったとする伝承がある。この地図は『信長公記』の老ノ坂越えで描いている
    • 沓掛での休息は後世の軍記(『川角太閤記』など)による

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・『川角太閤記』(後世の編纂物)

  4. 明智軍は桂川を渡り、京の西に入った。『信長公記』は、桂川を越えたころにようやく夜が明けてきたと書く。

    有名な「敵は本能寺にあり」は、江戸時代後期の頼山陽『日本外史』などで広まった言葉で、同時代の記録には見えない。明智方の兵だった本城惣右衛門は、後年の覚え書きに、本能寺に着くまで討つ相手は徳川家康だと思っていたと書き残している。

    諸説・分かっていないこと

    • 桂川から洛中までの道筋は史料に詳しくなく、地図の点線は推定

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・『本城惣右衛門覚書』(参加者の後年の回想)・頼山陽『日本外史』(後世の編纂物)

  5. 明智軍は本能寺を四方から囲み、攻め入った。当時の本能寺は、今の寺町通の本能寺とは別の場所にあり、六角通・西洞院通・蛸薬師通・油小路通に囲まれた区画を占めていた。2007年の発掘調査で、堀や石垣で守りを固めた寺だったことが分かっている。

    『信長公記』によれば、信長ははじめ下々の者の喧嘩だと思ったが、鬨の声が上がり鉄砲が撃ち込まれると、謀反と気づいて「誰の企てか」と尋ねた。森蘭丸が「明智の者と見えます」と答えると、信長は「是非に及ばず」と言ったという。

    信長は弓で、続いて槍で戦ったが傷を負い、奥へ下がって火を放ち、自害したと伝わる。寺は焼け落ち、信長の遺体は見つからなかった。

    諸説・分かっていないこと

    • 信長の最期の様子は、『信長公記』とフロイスの記録で細部が違う
    • 『信長公記』の太田牛一は現場におらず、逃れた女房衆などの話によると考えられている

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・ルイス・フロイス『日本史』(同時代の記録)・本能寺城跡の発掘調査(2007 年)(現代の調査)

  6. 妙覚寺にいた信忠は、本能寺へ駆けつけようとしたが、すでに落ちたと知らされた。京都所司代の村井貞勝の勧めで、守りの堅い二条御所(二条新御所)に移って籠もった。

    二条御所には誠仁親王が住んでいた。信忠は親王の一家を内裏へ移したうえで、明智軍を迎え撃った。

    少ない手勢でよく防いだが及ばず、信忠は自害した。二条御所の跡は、今の京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)の付近にあたる。

    諸説・分かっていないこと

    • 信忠が妙覚寺から二条御所へ移った経緯(村井貞勝の進言)は『信長公記』による

    参考にした資料: 『信長公記』巻十五(同時代の記録)・ルイス・フロイス『日本史』(同時代の記録)

  7. 京を押さえた光秀は、その日のうちに近江へ向かった。吉田兼見の日記『兼見卿記』には、未の刻(午後2時ごろ)、近江へ下る光秀に粟田口で会ったとある。

    安土へ向かうには瀬田橋を渡る。しかし瀬田城主の山岡景隆らが橋を焼き落としていたため渡れず、光秀は坂本城に入った。橋を直して安土城に入ったのは6月5日である。

    本能寺の変から11日後の6月13日、光秀は備中から引き返してきた羽柴秀吉と山崎で戦い、敗れる(山崎の戦い)。

    諸説・分かっていないこと

    • 光秀が瀬田まで進んだか、坂本へ直行したかの道筋は推定(点線)

    参考にした資料: 『兼見卿記』(同時代の記録)・『信長公記』巻十五(同時代の記録)

参考にした資料

同時代の記録(事件のころに書かれたもの)と、後世の編纂物(江戸時代以降にまとめられたもの)を区別して示す。後世の編纂物だけに見える話は、本文で「伝わる」「とされる」と書いた。

  • 『信長公記』巻十五同時代の記録
    信長に仕えた太田牛一の記録。牛一は事件の場におらず、逃れた人々からの聞き取りなどによると考えられている
  • 『兼見卿記』同時代の記録
    公家・吉田兼見の日記。変の当日、近江へ向かう光秀と粟田口で会った記事がある
  • 『言経卿記』同時代の記録
    公家・山科言経の日記
  • ルイス・フロイス『日本史』同時代の記録
    イエズス会の宣教師の記録。京にいた宣教師の見聞を含むが、伝聞も多い
  • 『本城惣右衛門覚書』参加者の後年の回想
    明智方の兵として本能寺の変に加わった本城惣右衛門が、後年に書き残した覚え書き
  • 『川角太閤記』後世の編纂物
    江戸時代の初めにまとめられた豊臣秀吉の一代記。明智軍の出陣の様子を詳しく書くが、後世の編纂物
  • 頼山陽『日本外史』後世の編纂物
    江戸時代後期の歴史書。「敵は本能寺にあり」の言葉を広めた
  • 本能寺城跡の発掘調査(2007 年)現代の調査
    京都市埋蔵文化財研究所による調査。当時の本能寺の位置と、堀や石垣で守りを固めた構えが分かった

地図は簡略化した図で、位置はおおよそ(点線は史料に道筋の無い推定の区間)。映像の兵の姿・本能寺へ四方から寄る矢印・羽柴秀吉の道筋は模式で、3D の高さは 1.6 倍に強調。標高: SRTM data courtesy of the U.S. Geological Survey(AWS Terrain Tiles)。肖像と接近戦の絵は AI で生成したイメージ。読み上げ: VOICEVOX:玄野武宏(CV:ガロ)。

本能寺の変をもっと知る本

漫画・秋田書店

信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第1巻

藤堂裕(漫画)・明智憲三郎(原案)

明智憲三郎氏の説(本能寺の変をめぐる説の一つ)をもとにした漫画。光秀の側から、変に至るまでを描く。通説とは違う説なので、このページの「分かっていないこと(諸説)」とあわせて読みたい。

文庫・PHP研究所(PHP文庫)

明智光秀と本能寺の変

小和田哲男

戦国史の研究者が、明智光秀はなぜ信長を討ったのかという謎を、史料をもとにたどった文庫。

価格・在庫・販売元はリンク先で確かめてください。

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