蜂須賀正勝の生涯
尾張国海東郡蜂須賀村の豪族・蜂須賀正利の子。通称は小六。織田信長の武将となり、のちに秀吉に仕えた。秀吉の家臣団でも最古参の一人である。
秀吉からは、敵対する勢力との交渉役として厚く信頼された。1581年には播磨龍野で5万3千石を領する大名となり、この年の鳥取城攻めの最中には、信長が秀吉と正勝の2人に宛てて書状を出している。1582年3月、備中高松城の攻撃に先立ち、黒田官兵衛と共に城主・清水宗治を備中・備後2か国を条件に味方へ誘ったが、宗治は毛利氏を裏切らなかった。中国攻めの後は、毛利氏との間で領地の境目を決める難しい交渉をまとめている。
1585年の四国攻めでは、長宗我部氏を早いうちに降伏へ導いた。元親は、秀吉に許されたのは正勝の口添えのおかげだとして、正勝に丁寧な礼状を送っている。秀吉は長年の働きに報いて阿波を与えようとしたが、正勝は年老いたことと、これからも秀吉のそばで仕えたいことを理由に断り、阿波は28歳の嫡子・家政が受け取った。正勝は翌1586年、大坂で病没した。







