豊臣秀長の生涯
豊臣秀吉の弟。四国攻めでは秀吉の名代として大軍を率い、九州征伐では日向方面軍を指揮した。大和・紀伊・和泉100万石余を領し、「大和大納言」と呼ばれた。軍事・政務の両面から豊臣政権を支えた有力大名として知られる。
— 大和大納言 —

| 名前 | 豊臣秀長 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 羽柴秀長 |
| 異名 | 大和大納言 |
| 生年 | 1540年 |
| 没年 | 1591年 |
| 出身 | 尾張(愛知県) |
| 所領 | 大和・和泉・紀伊 |
| 勢力 | 豊臣 |
| 役職 | 大名 |
豊臣秀吉の弟。四国攻めでは秀吉の名代として大軍を率い、九州征伐では日向方面軍を指揮した。大和・紀伊・和泉100万石余を領し、「大和大納言」と呼ばれた。軍事・政務の両面から豊臣政権を支えた有力大名として知られる。
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豊臣秀長の関係図をアプリで見る尾張国中村の生まれ。秀吉の弟だが、異父弟とする説と同父同母とする説があり、父系の詳細は定まっていない。兄とともに織田家に仕え、武将として活動した。
史料上、木下(のち羽柴)小一郎・長秀と名乗ったことが確認できる。兄の中国攻めに従い、三木合戦や備中高松城の水攻めで実務を担った。1582年の本能寺の変後は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど、秀吉の覇権確立に至る主要な戦いに従軍した。
1585年の四国攻めでは、秀吉の名代として総大将を務め、長宗我部元親を降伏に追い込んだ。1587年の九州征伐では日向方面軍を率い、根白坂の戦いで島津軍の夜襲を撃退。島津氏の降伏に至る流れに大きな影響を与えた。
戦功により大和・紀伊・和泉にまたがる100万石余を与えられ、大和郡山城主・従二位権大納言となる。「大和大納言」と呼ばれ、諸大名と秀吉の間を取り次ぎながら、軍事・政務の両面で豊臣政権を支えた有力大名として評価されている。
天正19年(1591年)1月22日、旧暦では大和郡山城で病没した。西暦では1591年2月15日にあたり、享年は51歳・52歳の両説がある。秀長の死後、千利休の切腹、秀次事件、朝鮮出兵が続いたため、政権の調整機能が失われたことを重くみる評価がある。
軍事・政務の両面で実務と調整を担った人物として評価される。大友宗麟が九州から上洛した際、秀長は「内々の儀は宗易(千利休)に、公儀の事は宰相(秀長自身)に」と告げたと伝わり、政権内での役割を示す史料として知られる。秀長が諸大名の取次役を担ったことは重要だが、豊臣政権の最終決定者は秀吉であり、秀長の役割を過度に広げない見方も必要である。
秀吉との血縁については、同父同母の実弟とする説と、異父弟とする説がある。確実な同時代史料が乏しく決着していない。また「秀長が生きていれば豊臣政権は続いた」という評価は広く語られるが、朝鮮出兵は秀長の生前から準備が進んでいたとの指摘もあり、彼一人で政権の破綻を防げたかは議論がある。
姫路城、出石城、大和郡山城
天正19年(1591年)1月22日、旧暦では大和郡山城にて病没。西暦では1591年2月15日にあたり、享年は51歳・52歳の両説がある。長く病を患っていたとされるが病名は不明。秀長の死後に利休の切腹、秀次事件、朝鮮出兵が続いたことから、政権の調整役を失った出来事として評価されることがある。
1578年〜1580年
播磨国・三木城
1582年4月〜6月
備中国・高松城
1582年6月13日
山城国・山崎
1583年4月
近江国・賤ヶ岳
1584年
尾張国・小牧山〜長久手
1585年
四国全域
1587年
九州全域
豊臣秀長は尾張(現在の愛知県)の出身です。
豊臣秀長は三木合戦、備中高松城水攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国平定、九州征伐に参戦しています。
豊臣秀長は「大和大納言」と呼ばれています。
天正19年(1591年)1月22日、旧暦では大和郡山城にて病没。西暦では1591年2月15日にあたり、享年は51歳・52歳の両説があります。病名は不明です。
「内々の儀は宗易に、公儀の事は宰相に存じ候」(大友宗麟に対し、政権内の窓口を示した言葉)