岡城

築城 1334年(建武元年)伝承

城名岡城
所在地大分県竹田市(豊後国直入郡)
築城1334年(建武元年)、大友氏一族の志賀貞朝によると伝わる(異説あり)
主な城主志賀氏歴代(大友氏重臣)、志賀親次。大友宗麟は主家として名目上の宗主
現状1874年(明治7年)に建物取り壊し。現在は石垣群が残る岡城公園として整備

岡城とは

岡城は豊後国直入郡(現在の大分県竹田市)にあった山城で、大野川・稲葉川・玉来川に囲まれた断崖絶壁の上に築かれた天然の要害である。伝承では1334年(建武元年)に大友氏一族の志賀貞朝が拡張し岡城と名付けたとされるが、志賀氏がこの地に入った時期については異説もある。以後、岡城は大友氏の重臣である志賀氏代々の居城として続いた。大友宗麟自身がここに居住したわけではなく、主家である大友氏に仕える志賀氏の本拠であった点に留意したい。

岡城が最も知られるのは、1586年(天正14年)の豊薩合戦においてである。島津義弘・島津家久らが率いる島津軍が豊後へ侵攻すると、若き城主・志賀親次はわずかな兵で岡城に籠城し、実父の親度が島津方に寝返る中でも屈することなく大軍を幾度も撃退した。この奮戦は豊臣秀吉から絶賛され、敵将の島津方からも「天正の楠木」と称えられたと伝わる。1593年、大友氏が改易されると志賀氏も岡城を退去し、後に岡藩・中川氏の居城として近世城郭に改修された。

1334年(建武元年) 大友氏一族の志賀貞朝が岡城を拡張・整備したと伝わる(築城年代には異説あり)
南北朝〜戦国期 大友氏重臣・志賀氏代々の居城として続く
1586年(天正14年)10月 島津義弘・島津家久らによる豊後侵攻(豊薩合戦)が始まる。志賀親次の父・親度は島津方に寝返る
1586〜87年(天正14〜15年) 城主・志賀親次が寡兵で岡城に籠城し、島津の大軍を幾度も撃退。秀吉・島津双方から称賛される
1587年(天正15年) 豊臣秀吉の九州平定により島津軍が撤退
1593年(文禄2年) 大友氏改易に伴い志賀氏も岡城を退去
江戸期 中川氏が入封し、岡藩の居城として近世城郭に改修される
1874年(明治7年) 廃城となり建物が取り壊される
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ゆかりの武将

大友氏の重臣としてこの城を守った人物

岡城を実際に居城とし1586年の籠城戦を指揮したのは大友氏重臣・志賀親次であり、大友宗麟自身がこの城に居住した記録はない。宗麟は志賀氏の主家として名目上の宗主にあたる。

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大分府内城 岡城

よくある質問

Q. 岡城とは?

大分県竹田市にあった山城で、大友氏の重臣・志賀氏代々の居城。断崖絶壁に築かれた天然の要害として知られる。

Q. 1586年の島津侵攻ではどうなったのですか?

城主・志賀親次がわずかな兵で籠城し、実父が寝返る中でも島津の大軍を幾度も撃退した。この奮戦は敵味方双方から称賛された。

Q. 岡城は今も見られますか?

建物は明治7年(1874年)に取り壊されたが、断崖上に築かれた壮大な石垣群が現存し、岡城公園として整備されている。滝廉太郎の『荒城の月』のモチーフになったとも言われる。

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