府内城

大友氏の本拠地(府内) 16世紀中頃/築城1597年(慶長2年)

城名府内城(大分府内城)
所在地大分県大分市(豊後国)
築城1597年(慶長2年)、福原直高が築城開始、のち竹中重利が完成
主な城主・本拠者大友宗麟(府内館・城下町の本拠者)、福原直高、竹中重利(近世府内城の築城者)
現状大分城址公園として整備。人質櫓・宗門櫓などの一部建造物と石垣が現存

府内城とは

大分府内城は、豊後国の中心地・府内(現在の大分市中心部)にあった城である。現在見られる石垣造りの本格的な城郭は、実は大友氏が改易された後の1597年(慶長2年)に福原直高が築城を始め、竹中重利が完成させたものであり、大友宗麟自身が築いた城ではない。ただし府内は、大友氏が中世を通じて拠点とした「大友氏館」を中心とする城下町であり、宗麟もこの地を本拠のひとつとして統治にあたった。

大友宗麟(当時は義鎮)は1550年の家督相続後、1551年にフランシスコ・ザビエルを府内に招いて謁見し、キリスト教布教を許可したことで知られる。もっとも宗麟自身は1562年頃からは臼杵城(丹生島城)を主な本拠としており、府内はその後も大友氏の政庁・城下町として機能し続けた。1586〜87年の豊薩合戦で島津氏の侵攻を受け、1593年に大友氏が改易されると、跡地に新たに近世城郭としての府内城が築かれた。

南北朝〜室町期 大友氏泰以来、大友氏が大分川河口付近に大友氏館を構え、府内の町が形成される
1550年(天文19年) 大友二階崩れの変を経て大友宗麟(義鎮)が家督を継ぐ
1551年(天文20年) 宗麟がフランシスコ・ザビエルを府内に招き、キリスト教布教を許可
1562年頃(永禄5年頃) 宗麟が臼杵城(丹生島城)へ本拠を移す
1586〜87年(天正14〜15年) 豊薩合戦で島津氏が豊後へ侵攻し、府内周辺も戦場となる
1593年(文禄2年) 大友義統(宗麟の子)が改易され、大友氏の豊後支配が終わる
1597年(慶長2年) 福原直高が近世城郭としての府内城の築城を開始
江戸期 竹中重利らにより府内城が完成し、府内藩の藩庁となる
1743年(寛保3年) 大火により天守などが焼失
広告

ゆかりの武将

府内を本拠とした人物

現存する石垣造りの府内城そのものは大友氏改易後の1597年に築かれたものであり、大友宗麟が直接築いた城ではない点に注意。宗麟は府内館を中心とする城下町「府内」を本拠のひとつとして統治し、後年は臼杵城に主な本拠を移した。

関連する合戦

大友宗麟ゆかりの城

大分府内城 岡城

よくある質問

Q. 大分府内城とは?

豊後国府内(現・大分市)にあった城。現在の石垣造りの城郭自体は1597年に大友氏改易後に築かれたものだが、府内は大友宗麟が本拠を置いた地として知られる。

Q. 大友宗麟が築いた城なのですか?

厳密には異なる。宗麟が本拠としたのは「大友氏館」であり、現存する府内城の縄張りは大友氏改易後に福原直高・竹中重利によって築かれたもの。

Q. ザビエルとの関係は?

1551年、宗麟はフランシスコ・ザビエルを府内に招いて謁見し、キリスト教の布教を許可した。この会見は府内館において行われたとされる。

APP アプリでもっと深く

気になった武将も合戦も、アプリなら横断して辿れる。

サイトで見つけた入口から、アプリでは人物・合戦・関係図・地図を行き来しながら、気になる戦国を深掘りできます。

  • 214人の武将
  • 44件の合戦
  • オフライン対応
戦国図鑑をアプリで深掘りする Google Play で入手