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百済

漢江流域から西南部へ展開し、大陸・海を通じた交流を背景に文化を育んだ国家。

百済を知る要点

おおよその存続
紀元前18年〜660年
主な都
漢城・熊津・泗沘
位置
半島西南部

どんな国家だったか

漢江から西南部へ

百済は漢江流域を中心に成長しましたが、475年に高句麗の攻勢を受けて都を熊津へ移し、のちに泗沘へ移転します。都の移動は国家再建と対外戦略の変化を示します。

海を通じた交流

中国南朝や倭との交流は、百済を理解する重要な視点です。人・技術・仏教文化の移動を通じて、百済は東アジアの海上ネットワークに参加しました。

新羅との協力と対立

高句麗に対抗するため百済と新羅が協力する時期がありました。一方で漢江流域をめぐる利害は衝突し、両国の関係は大きく変化します。

660年の滅亡

新羅・唐連合の攻勢によって百済は660年に滅亡しました。その後も復興を目指す動きが続き、白村江の戦いへつながります。

百済の代表人物

近肖古王を想像して描いた歴史イメージ

近肖古王

在位 346–375年

4世紀の百済の勢力拡大を象徴する王です。高句麗との戦いと対外交流の両面から、百済が強国化する時期を考える入口になります。

聖王を想像して描いた歴史イメージ

聖王

在位 523–554年

538年に都を泗沘へ移し、政治・制度の再編を進めました。新羅との関係が決定的に変わる時代の王でもあります。

義慈王を想像して描いた歴史イメージ

義慈王

在位 641–660年

百済最後の王です。660年の滅亡は一人だけでは説明できず、新羅・唐・高句麗を含む国際関係のなかで理解する必要があります。

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時代の流れ

475
熊津へ遷都

高句麗の攻勢で漢城を失い、国家の再建を迫られます。

538
泗沘へ遷都

聖王のもとで新たな都を整え、政治制度を再編します。

660
百済滅亡

新羅・唐連合の攻勢により都城が陥落します。