19TH KING / GOGURYEO

広開土王クァンゲトワン / 諱・談徳

4世紀末から5世紀初め、高句麗の勢力圏を東西南北へ広げた王。息子の長寿王が建てた巨大な碑によって、王の事績と高句麗の自己認識を具体的にたどれます。

高句麗第19代王永楽広開土王碑
広開土王を想像して描いた歴史イメージ
AIによる歴史イメージ。肖像の史料ではありません。
在位
391〜413年
王名
広開土王
談徳
次代
長寿王

FIRST LOOK

高句麗を「大国」にした王

広開土王は、百済、後燕、契丹、新羅・加耶方面などへ軍事行動を展開し、高句麗の領域と影響力を大きく広げました。単に領土を増やした王ではなく、周辺国家が高句麗を中心に動く局面を作った人物として見ることが重要です。

王は在位中に「永楽」という独自の年号を用いました。これは高句麗王権の自立性と、当時の国際関係における立場を考える手がかりになります。

年代表記について

広開土王碑に基づく391〜413年と、『三国史記』に基づく392〜413年があり、資料によって即位年の数え方が異なります。このページでは碑文に基づく表記を採用します。

EXPANSION

どの方向へ勢力を広げたか

WEST

遼東と後燕

西方では後燕との抗争を通して遼東方面への影響を強め、高句麗が北東アジアの有力勢力として立つ基盤を作りました。

SOUTH

百済への圧力

南方では百済を攻め、漢江流域をめぐる力関係を高句麗側へ傾けます。この対立は次代の長寿王にも続きます。

SOUTHEAST

新羅への軍事支援

新羅の求めに応じて軍を派遣したことが碑文に記されます。支援であると同時に、高句麗の影響力が半島南部へ及んだ局面でした。

THE STELE / 414

広開土王碑は何を伝えるか

広開土王の死後、長寿王は414年に王の事績を記した碑を建立しました。現在の中国吉林省集安に残り、始祖・鄒牟王の建国神話、広開土王の軍事活動、王陵を守る人々の制度などが刻まれています。

碑文は非常に重要ですが、現代の中立的な記録ではありません。王の功績と王統の正統性を示すために作られた文章であること、欠損や読解をめぐる議論があることを意識して読む必要があります。

HISTORY TO DRAMA

ドラマで最盛期を見る

『広開土太王』は、建国物語の『朱蒙』から約400年後の高句麗を描きます。作品から入った場合は、碑文に残る王の事績とドラマの人物関係を分けて見ると理解しやすくなります。

作品側の入口ドラマ『広開土太王』の予告編・作品情報を見る

主な参照先

詳しい事績と年代差は、韓国民族文化大百科事典「広開土王」↗、碑の概要は韓国史データベース「広開土大王陵碑」↗を参照してください。