直江兼続の生涯
越後国の与板城主・樋口惣右衛門の長男。幼名は与六。上杉謙信の養子・景勝に仕え、「御館の乱」で景勝方として勝利に貢献。以後、景勝の右腕として上杉家の政務を一手に担った。
秀吉からも高く評価され、陪臣ながら出羽米沢30万石の実質的支配者となる。関ヶ原の前段階では、徳川家康に対して「直江状」と呼ばれる挑発的書状を送り、家康の会津征伐のきっかけを作った。
関ヶ原の敗戦後、上杉家は120万石から30万石に大減封されるが、兼続は家臣の再編と領国経営に尽力し、米沢藩の基盤を築いた。1619年に江戸で死去。享年60。

