敦賀城とは
敦賀城は、天正10年(1582年)に羽柴秀吉の家臣・蜂屋頼隆が敦賀に入封した際に築いた城である。天正17年(1589年)、頼隆が九州征伐の陣中で病没すると、代わって大谷吉継が2万余石で敦賀城主となった。
吉継は水軍も擁する海城として敦賀城を大改修し、城下町を整備して敦賀を港町として発展させた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した吉継が敗死すると大谷氏は改易され、元和2年(1616年)の一国一城令により廃城となった。
天正17年(1589年) 大谷吉継が入城
| 城名 | 敦賀城 |
|---|---|
| 所在地 | 越前国敦賀郡(現・福井県敦賀市) |
| 築城 | 天正10年(1582年)蜂屋頼隆が築城 |
| 入城 | 天正17年(1589年)大谷吉継が入城、以後の城主 |
| 主な城主 | 大谷吉継 |
| 現状 | 市街地化により遺構はほとんど残らず、正確な位置も不明。真願寺・来迎寺に伝承地や移築門が残る |
敦賀城は、天正10年(1582年)に羽柴秀吉の家臣・蜂屋頼隆が敦賀に入封した際に築いた城である。天正17年(1589年)、頼隆が九州征伐の陣中で病没すると、代わって大谷吉継が2万余石で敦賀城主となった。
吉継は水軍も擁する海城として敦賀城を大改修し、城下町を整備して敦賀を港町として発展させた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した吉継が敗死すると大谷氏は改易され、元和2年(1616年)の一国一城令により廃城となった。
天正10年(1582年)に羽柴秀吉の家臣・蜂屋頼隆が築城し、その死後の天正17年に大谷吉継が城主となった。
市街地化が進み、当時を偲ばせる遺構はほとんど残っていない。真願寺は乾門跡と伝わり、来迎寺には移築されたと伝わる門が残る。