二条新御所

天正7年(1579)~天正10年(1582)

城館名二条新御所(二条御新造)
所在地京都府京都市中京区(推定地)
築造天正7年(1579)頃、織田信長が新築し誠仁親王に献上
主な関係人物織田信忠(本能寺の変で自刃)
現状遺構なし、京都市街地の一角

二条新御所とは

二条新御所は、関白・二条晴良の屋敷跡に織田信長が新築した邸宅「二条御新造」を前身とする。天正7年(1579)11月、信長はこれを正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、以後「二条新御所」と呼ばれる親王家の御所となった。

天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀による本能寺の変が勃発すると、信長の嫡男織田信忠は宿所の妙覚寺から本能寺へ向かおうとしたが、すでに手遅れと知り、京都所司代・村井貞勝の進言で防御に優れた二条新御所へ移った。

信忠は誠仁親王と若宮(後の後陽成天皇)を内裏へ避難させたうえで御所に籠城し、明智勢を相手に奮戦したが、貞勝ら家臣60余名とともに討ち死に・自刃し、御所は焼け落ちた。信長が横死した本能寺そのものとは別の場所であり、また足利将軍家ゆかりの「二条御所(武衛陣の御構)」とも異なる建物である点に注意したい。

1579年 織田信長が二条御新造を正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し「二条新御所」となる
1582年6月2日 本能寺の変が勃発。織田信忠が妙覚寺から二条新御所へ移り籠城
1582年6月2日 誠仁親王らを内裏へ避難させた後、明智勢との攻防の末に信忠が自刃、御所は焼失
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ゆかりの武将

織田信忠が最期を迎えた御所

信長が横死した本能寺、足利将軍家ゆかりの二条御所(武衛陣の御構)とは異なる、誠仁親王の御所である点に留意。

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よくある質問

Q. 二条新御所は本能寺と同じ場所ですか?

いいえ、異なります。織田信長が横死したのは本能寺で、嫡男の織田信忠が自刃したのは妙覚寺からさらに移った二条新御所であり、両者は別の建物です。

Q. 二条新御所と二条御所(武衛陣の御構)は同じ建物ですか?

別の建物です。二条御所(武衛陣の御構)は足利義輝・義昭ゆかりの室町幕府将軍邸で、二条新御所は織田信長が新築し誠仁親王に献上した御所であり、所在地・時代とも異なります。

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