加古川城とは
加古川城は播磨国印南郡加古川村(現在の兵庫県加古川市加古川町本町)にあった平城で、地元の豪族・糟屋氏の居城であった。天正5年(1577年)には、中国攻めを開始した羽柴秀吉がこの城に播磨の諸将を集めて軍議「加古川評定」を開いたことで知られ、この会議での秀吉と別所吉親の不和が別所氏離反の一因になったとする説があるが、離反の背景には諸城破却への反発など複数の要因も指摘されており、加古川評定のみが直接の原因と断定されているわけではない。
糟屋武則の出自には諸説あり、加古川城主・糟屋氏の一族出身とする説がある一方、播磨の志村氏に生まれ、母の再婚を通じて糟屋氏と縁戚関係にあったとする説も有力である。武則は羽柴秀吉に仕えて各地を転戦した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政方の武将を討ち取る武功を挙げ、福島正則や加藤清正らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を挙げた。
その武功により所領を加増された糟屋武則は、秀吉晩年には1万2千石を領する加古川城主となった。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に属したため、戦後改易となり大名としての糟屋家は終わりを迎えた。現在の加古川城跡は市街地化が進み遺構はほとんど残っていないが、城跡を示す石碑が往時を伝えている。



