趙雲とは
蜀漢の五虎大将の一人。公孫瓚の下で劉備と出会い、やがてその人徳に惹かれ蜀に仕えた。長坂の戦いでは曹操軍百万の中を単騎駆けし、幼き劉禅を救出。生涯を通じて冷静沈着な用兵を見せ、演義では「一生の戦いに敗績なし」と讃えられる。
- 子龍 -

| 名前 | 趙雲 |
|---|---|
| 字 | 子龍 |
| 生年 | ?年 |
| 没年 | 229年 |
| 勢力 | 蜀 |
| 立場 | 武将 |
蜀漢の五虎大将の一人。公孫瓚の下で劉備と出会い、やがてその人徳に惹かれ蜀に仕えた。長坂の戦いでは曹操軍百万の中を単騎駆けし、幼き劉禅を救出。生涯を通じて冷静沈着な用兵を見せ、演義では「一生の戦いに敗績なし」と讃えられる。
冀州常山郡真定県の出身。初めは公孫瓚に仕え、そのもとで劉備と出会った。公孫瓚のもとを離れた後、劉備に合流して以後は生涯を通じてその腹心として仕えた。
208年の長坂の戦いでは、曹操の大軍の中を単騎駆けし、劉備の幼子・阿斗(後の劉禅)を懐に抱いて救出した。この活躍は演義最大の見せ場の一つとして知られる。
入蜀後は翊軍将軍として劉備を支え、漢中の戦いでも空城の計(演義)を用いて曹操軍を退けた。劉備からは「子龍は一身これ胆なり」と評された。
夷陵の戦いには直接参加しなかったが、諸葛亮の第一次北伐では箕谷の別動隊を率い、寡兵ながら整然と撤退して損害を最小限に抑えた。229年に没。後に順平侯と追謚された。
忠義と武勇を兼ね備えた理想的な武人。自らの功名より主君の大義を重んじ、劉備が成都の財宝を将士に分配しようとした際には「民を安んじるのが先」と諫めた。演義では五虎大将の中でも最も完全無欠な人物として描かれ、生涯を通じて一度も大きな失策がない。正史でも堅実で信頼される将として記録されている。
正史での趙雲の地位は演義ほど高くなく、関羽・張飛・馬超・黄忠に比べて官位が低かった。これは趙雲が護衛的な役割に徹したためとも、別の要因があるとも議論される。また五虎大将という呼称自体が演義の創作で、正史では「前後左右将軍」に趙雲は含まれていない。ただし趙雲伝に別伝が引用されていることから、相当の功績があったことは確かである。
229年に病没。享年は諸説あるが60歳前後と推定される。261年に劉禅から順平侯と追謚された。これは蜀漢の臣下で追謚を受けた数少ない人物の一人であり、趙雲への評価の高さを示している。
趙雲は蜀に属する武将として知られます。
趙雲の字は子龍です。
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