張遼

- 文遠 -

武将

張遼のAI生成イメージ
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名前張遼
文遠
生年169年
没年222年
勢力
立場武将

張遼とは

魏の五将の筆頭。もと呂布の配下だったが、曹操に降って重用された。合肥の戦いでは僅か八百の兵で孫権の十万の大軍を撃破。呉の子供が夜泣きすれば「遼来来(張遼が来るぞ)」と言えば泣き止んだという逸話が残る。

張遼の生涯

并州雁門郡馬邑県の出身。初めは丁原に仕え、後に董卓、呂布に従った。198年の下邳の戦いで呂布が敗れると曹操に降伏。関羽との親交も知られ、官渡の戦いでは関羽と共に顔良を討っている。

215年の合肥の戦いが張遼の名を不朽にした。曹操が漢中に遠征した留守中、孫権が十万の大軍で合肥に攻め寄せた。張遼は僅か八百の精兵で夜明け前に孫権本陣に突撃し、呉軍の度肝を抜いた。さらに撤退する孫権を逍遙津で追い詰め、孫権は愛馬に堀を飛び越えさせてようやく脱出した。

この活躍により「遼来来(張遼が来るぞ)」と言えば呉の子供が泣き止むという伝説が生まれた。曹丕の時代にも対呉の前線に立ち続け、222年に江都にて病没。享年54。

人物像

降将でありながら曹操に絶対の信頼を勝ち取った忠勇の士。呂布の配下時代から武勇は知られていたが、曹操のもとで統率力と戦略眼が開花した。関羽との義理を重んじ、敵味方の別を超えた交誼を結べる懐の深さを持つ。合肥では寡兵で大軍に挑む勇気を見せつつも、冷静に戦況を判断する知勇兼備の名将であった。

名言

  • 「遼来来!(張遼が来たぞ!)」(呉で子供が泣き止む言葉)
  • 「成敗は天にあり。恐れるに足らず」(合肥出撃前の激励)
  • 「大丈夫たるもの、敵に背を見せてはならぬ」(合肥の突撃時)

トリビア

  • 合肥の戦いは中国戦史上最も有名な寡兵の勝利の一つとして語り継がれている。
  • 元は聶姓で、先祖が聶壹であったため避禍のため張姓に改めたとされる。
  • 関羽とは敵味方を超えた友情があり、関羽が曹操のもとを去る際にも見送ったと伝わる。
  • 曹操の五子良将の筆頭とされ、合肥の功で征東将軍に昇進している。

歴史的議論

合肥の戦いの詳細は正史にも記されているが、八百人での突撃がどこまで正確かは議論がある。ただし孫権が十万の軍で攻めてきたのに対し、張遼が積極的な出撃で撃退したことは正史に明記されている。また、呂布・関羽との関係性から「義」を重んじる武将として描かれることが多いが、正史では実務的で堅実な将としての記述がより目立つ。

最期

222年、曹丕に従い呉征伐の途上、江都にて病没。享年54。病を押して出陣し、孫権は「張遼病めりと雖も、当に之を避くべし。慎みて之と戦う勿かれ」と部下に警告したとされ、死の直前まで呉に恐れられた。

張遼の人物関係

よくある質問

張遼はどの勢力に属した?

張遼は魏に属する武将として知られます。

張遼の字は?

張遼の字は文遠です。

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