姜維とは
蜀漢末期の名将にして諸葛亮の衣鉢を継ぐ者。もと魏の天水郡の将だったが、諸葛亮に才を見出され蜀に帰順。孔明の遺志を継ぎ、九度にわたる北伐を敢行した。蜀滅亡後もなお策を巡らせ、魏の鍾会を利用した復国計画が露見し処刑された。最後の忠臣。
- 伯約 -

| 名前 | 姜維 |
|---|---|
| 字 | 伯約 |
| 生年 | 202年 |
| 没年 | 264年 |
| 勢力 | 蜀 |
| 立場 | 武将 |
蜀漢末期の名将にして諸葛亮の衣鉢を継ぐ者。もと魏の天水郡の将だったが、諸葛亮に才を見出され蜀に帰順。孔明の遺志を継ぎ、九度にわたる北伐を敢行した。蜀滅亡後もなお策を巡らせ、魏の鍾会を利用した復国計画が露見し処刑された。最後の忠臣。
涼州天水郡冀県の出身。元は魏の官吏だったが、228年の諸葛亮の第一次北伐の際に降伏し、蜀に仕えた。諸葛亮は姜維の才を高く評価し、「涼州の上士」「胆義は人に過ぐ」と讃え、自らの軍学を伝授した。諸葛亮は朝廷への書簡でも姜維を絶賛しており、将来の蜀軍の柱として期待した。
234年の諸葛亮死後、蜀の軍事を担い、238年以降は大将軍として北伐を継続。計11回に及ぶ北伐を行い、魏の鄧艾・鍾会と激戦を繰り広げた。段谷の戦いで大敗するなど失敗もあったが、蜀の存続のために戦い続けた。
263年、鄧艾の奇襲で成都が陥落し蜀は滅亡。しかし姜維は諦めず、投降した鍾会と結んでクーデターにより蜀の再興を図った。だが計画は露見し、264年に鍾会と共に殺害された。享年63。
師・諸葛亮の遺志を生涯貫こうとした不屈の意志の持ち主。蜀が衰退する中でも北伐を続けたのは、中原回復を目指す諸葛亮の遺志に殉じる想いからであった。一方で、度重なる北伐は国力を消耗させたとの批判もあり、費禕が生存中は出兵の規模を制限されていた。滅亡後も最後まで蜀の再興を企図した執念は評価が分かれる。
姜維の北伐は蜀存続のために必要だったのか、それとも国力を消耗させた愚策だったのかが最大の論点。費禕は「丞相すら成し遂げられなかったことを、我々にできるはずがない」と姜維を制止した。また、姜維の漢中防衛策の変更(前線防衛から誘い込み戦略への転換)が鄧艾の侵攻を容易にしたとの批判もある。滅亡後の鍾会との謀略も、蜀再興の本気の企てか、自己保身かで評価が分かれる。
264年、鍾会の反乱に便乗して蜀再興を図るも、計画が露見し乱戦で殺害された。享年63。死後、遺体は解剖され「胆は鶏卵の如し」と記録された。蜀漢最後の忠臣として悲劇的な最期を遂げた。
姜維は蜀に属する武将として知られます。
姜維の字は伯約です。
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