董卓とは
後漢末の暴君的権臣。少帝を廃して献帝を擁立し、洛陽を焼いて長安に遷都。反董卓連合軍を退けるも、養子・呂布と司徒・王允の策謀により暗殺された。その暴政は三国乱世の引き金となった。
- 仲穎 -
| 名前 | 董卓 |
|---|---|
| 字 | 仲穎 |
| 生年 | ?年 |
| 没年 | 192年 |
| 勢力 | 群雄 |
| 立場 | 君主 |
後漢末の暴君的権臣。少帝を廃して献帝を擁立し、洛陽を焼いて長安に遷都。反董卓連合軍を退けるも、養子・呂布と司徒・王允の策謀により暗殺された。その暴政は三国乱世の引き金となった。
涼州隴西郡臨洮県の出身。辺境の武人として羌族との戦いで頭角を現し、涼州一帯に強大な軍事力を築いた。189年、大将軍・何進が宦官誅殺のために外兵を招いた際に洛陽に入京。何進の暗殺と宦官の全滅による政治的空白に乗じ、少帝を廃して献帝を擁立し、権力を掌握した。
洛陽に入ると横暴を極め、略奪・殺戮・後宮の蹂躙など暴虐の限りを尽くした。190年、袁紹らが反董卓連合を結成すると、洛陽を焼き払って長安に遷都。漢の帝都を灰燼に帰せしめた。
長安でも暴政は続き、192年、王允と呂布の連携により殺害された。死後、肥満体の腹に灯心を立てて火をつけたところ、何日も燃え続けたという逸話が残る。董卓の暴政は後漢の事実上の崩壊を意味し、群雄割拠の三国時代の幕開けとなった。
粗暴で猜疑心が強く、権力への執着が凄まじかった。涼州の異民族との戦いで培った残虐さを政治にも持ち込み、恐怖政治で朝廷を支配した。一方で初期には人材登用にも一定の見識を見せ、蔡邕を重用するなど文化的な一面もあった。しかし権力の肥大化と共に制御不能な暴君と化し、最終的には腹心の呂布にすら裏切られた。
董卓は単なる暴君だったのか、それとも涼州軍閥の利益を代表する構造的な問題の体現者だったのかが議論される。後漢末期の中央政府と地方軍閥の対立は董卓以前から存在しており、董卓はその矛盾が爆発した結果とも言える。また、演義での貂蝉をめぐる連環の計は創作であり、正史では呂布が董卓の侍女と密通したことが裏切りの一因とされている。
192年、王允の計略により養子・呂布に殺害された。正史では、呂布が董卓の侍女と密通していたことへの不安から裏切りを決意したとされる。死体は市中に晒され、腹に灯心を刺されて燃やされた。長安の民衆は歓喜して踊り狂ったと伝わる。
董卓は群雄に属する君主として知られます。
董卓の字は仲穎です。
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