史詩

真田昌幸

— 表裏比興の者 —

真田 武将

名前真田昌幸
本名・幼名源五郎
異名表裏比興の者
生年1547年
没年1611年
出身信濃(長野県)
勢力真田
役職武将

真田昌幸の生涯

真田幸隆の三男。武田家滅亡後、独立勢力として巧みな外交で生き延びた。上田城の戦いで二度にわたり徳川軍を撃退した知将。秀吉に「表裏比興の者」と評された。

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詳細な経歴

武田信玄の家臣・真田幸隆の三男。武田家に仕え、信玄・勝頼二代に仕える。武田家滅亡後、織田・北条・上杉に囲まれた中で巧みな外交を展開し、独立した領主としての地位を確立した。

1585年の第一次上田合戦では、わずか2千の兵で徳川軍7千を撃退。巧みな地形利用と計略で、数に勝る敵を翻弄した。秀吉に臣従後は領地を安堵され、信濃の有力大名となる。

1600年の関ヶ原では次男・信繁(幸村)と共に西軍に属し、第二次上田合戦で徳川秀忠率いる3万8千の大軍を足止め。秀忠を関ヶ原の本戦に遅参させるという大戦果を挙げた。敗戦後、高野山・九度山に流され、赦免を待たずに1611年に死去。

性格・人物像

「表裏比興の者」(食わせ者)と秀吉に評されたほどの策謀家。信玄の薫陶を受けた知略は凄まじく、限られた兵力で大軍を二度も退けた。長男・信之を徳川方、次男・信繁を豊臣方に分けたのも、家の存続を第一に考えた冷徹な判断とされる。

名言

  • 「わしの目の黒いうちは、この城は落ちぬ」(上田城にて・伝承)

トリビア

  • 秀吉に「表裏比興の者」と評されたのは、主君を次々と変えた処世術に対するもの。しかし裏を返せば、小勢力で生き延びる知恵の証。
  • 徳川を二度も上田城で撃退したことは、家康にとって生涯の屈辱であった。
  • 九度山での蟄居生活は困窮し、兄の信尹に金銭の無心をする書状が残っている。
  • 死の直前まで赦免を願い出ていたが、家康が許すことはなかった。

歴史的議論

関ヶ原での真田家分裂が計画的だったのか偶然だったのかは議論がある。犬伏の陣での話し合いは有名だが、実際の経緯は不明な点が多い。第二次上田合戦の秀忠遅参が関ヶ原の結果にどの程度影響したかも議論されている。

関連する城

上田城、砥石城、沼田城

最期

1611年6月4日、紀伊国九度山にて病没。享年65。流罪先での死は無念であったとされ、最後まで上田への帰還を願い続けた。

参戦した合戦

人物関係

親族

敵対

よくある質問

Q. 真田昌幸の出身はどこ?

真田昌幸は信濃(現在の長野県)の出身です。

Q. 真田昌幸の代表的な戦いは?

真田昌幸は川中島の戦い、天正壬午の乱、第一次上田合戦、第二次上田合戦、関ヶ原の戦いに参戦しています。

Q. 真田昌幸の異名は?

真田昌幸は「表裏比興の者」と呼ばれています。

Q. 真田昌幸の最期は?

1611年6月4日、紀伊国九度山にて病没。享年65。流罪先での死は無念であったとされ、最後まで上田への帰還を願い続けた。

Q. 真田昌幸の名言は?

「わしの目の黒いうちは、この城は落ちぬ」(上田城にて・伝承)

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