本多忠勝の生涯
徳川四天王の一人。57回の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる。「蜻蛉切」の槍と鹿角の兜がトレードマーク。秀吉に「東国一の勇将」、信長に「花実兼備の勇士」と評された。
— 戦国最強の武将 —
| 名前 | 本多忠勝 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 平八郎 |
| 異名 | 戦国最強の武将 |
| 生年 | 1548年 |
| 没年 | 1610年 |
| 出身 | 三河(愛知県) |
| 勢力 | 徳川 |
| 役職 | 武将 |
徳川四天王の一人。57回の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる。「蜻蛉切」の槍と鹿角の兜がトレードマーク。秀吉に「東国一の勇将」、信長に「花実兼備の勇士」と評された。
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戦国図鑑アプリを見る三河国の本多家に生まれ、13歳で初陣。以後、徳川家康に仕え、57回の合戦に参加して一度も傷を負わなかったと伝わる。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなど、家康の主要な戦いのほぼ全てに参戦。
小牧・長久手の戦いでは、わずか500の兵で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、秀吉をして「東国一の勇士」と言わしめた。関ヶ原の戦い後は伊勢桑名10万石を拝領。1610年に死去。享年63。
実直で主君への忠誠心が極めて高い。武一辺倒に見えるが、娘の小松姫を真田信之に嫁がせるなど、政治的なセンスも持ち合わせていた。「家康に過ぎたるもの」と評された生涯は、まさに戦国最強の忠臣。
57戦無傷の伝説は誇張の可能性があるが、多くの合戦に参加しながら致命傷を負わなかったのは事実とされる。「東の本多忠勝、西の立花宗茂」の比較は後世の表現。
岡崎城、大多喜城、桑名城
1610年10月18日、桑名にて死去。享年63。晩年は小刀で自分の手を傷つけたことをきっかけに衰えを自覚したと伝わる。
1570年6月
近江国・姉川
元亀3年12月(1573年1月)
遠江国・三方ヶ原
1575年5月
三河国・長篠
1584年
尾張国・小牧山〜長久手
1582年6月
伊賀国〜三河国
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
本多忠勝は三河(現在の愛知県)の出身です。
本多忠勝は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、伊賀越え、関ヶ原の戦いに参戦しています。
本多忠勝は「戦国最強の武将」と呼ばれています。
1610年10月18日、桑名にて死去。享年63。晩年は小刀で自分の手を傷つけたことをきっかけに衰えを自覚したと伝わる。
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死する心こそ真の侍なれ」