伊達政宗の生涯
奥州の戦国大名。幼少期に右目を失明し「独眼竜」と称された。小田原征伐で秀吉に臣従。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、仙台藩の初代藩主となった。
— 独眼竜 —
| 名前 | 伊達政宗 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 梵天丸 |
| 異名 | 独眼竜 |
| 生年 | 1567年 |
| 没年 | 1636年 |
| 出身 | 出羽(山形県) |
| 勢力 | 伊達 |
| 役職 | 大名 |
奥州の戦国大名。幼少期に右目を失明し「独眼竜」と称された。小田原征伐で秀吉に臣従。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、仙台藩の初代藩主となった。
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戦国図鑑アプリを見る伊達輝宗の嫡男。幼名は梵天丸。5歳の時に天然痘で右目を失明。1584年に18歳で家督を継ぎ、わずか数年で南奥州を制覇した。1589年の摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となる。
1590年の小田原征伐では遅参しつつも白装束で秀吉に謁見し、巧みに臣従。朝鮮出兵にも参加。関ヶ原では東軍に属し、慶長出羽合戦で上杉軍と交戦。
1601年に仙台城を築城し、仙台藩62万石の基礎を築く。1613年には家臣・支倉常長をスペイン・ローマに派遣(慶長遣欧使節)。1636年に70歳で病没するまで、伊達家の繁栄に尽力した。
派手好きで洒脱な性格。「伊達者」という言葉の語源とも言われる。料理が趣味で、仙台味噌や凍り豆腐の開発に関わったとされる。右目を失ったコンプレックスをバネに、常に天下を狙う野心を持ち続けた。一方で文化人でもあり、和歌や漢詩にも通じていた。
あと20年早く生まれていれば天下を取れたか、という「遅れてきた英雄」論がよく語られるが、奥州の地理的制約を考えると天下統一は現実的に困難だったとする見方が主流。慶長遣欧使節の目的についても、純粋な通商目的か、スペインとの軍事同盟による天下取りの野望だったかで意見が分かれる。
米沢城、岩出山城、仙台城(青葉城)
1636年5月24日、江戸の仙台藩邸にて病没。死因は食道がん(またはがん性腹膜炎)と推定される。享年70。遺言により殉死が禁じられたが、15名以上の家臣が後を追った。
1588年
陸奥国・大崎領
1585年11月
奥州・人取橋
1589年6月
陸奥国・摺上原
1590年
相模国・小田原城
1600年9月15日
美濃国・関ヶ原
1614年〜1615年
摂津国・大坂城
伊達政宗には7人の家臣が仕えました。
伊達政宗の家臣一覧を見る →伊達政宗は出羽(現在の山形県)の出身です。
伊達政宗は大崎合戦、人取橋の戦い、摺上原の戦い、小田原征伐、関ヶ原の戦い、大坂の陣に参戦しています。
伊達政宗は「独眼竜」と呼ばれています。
1636年5月24日、江戸の仙台藩邸にて病没。死因は食道がん(またはがん性腹膜炎)と推定される。享年70。遺言により殉死が禁じられたが、15名以上の家臣が後を追った。
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」(辞世の句)