史詩

明智光秀

— 智将十兵衛 —

織田 武将

名前明智光秀
本名・幼名十兵衛
異名智将十兵衛
生年1528?年
没年1582年
出身美濃(岐阜県)
勢力織田
役職武将

明智光秀の生涯

織田信長の重臣。出自は謎に包まれている。信長の天下統一事業に尽力したが、本能寺の変で信長を討つ。その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、敗走中に落命したとされる。

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詳細な経歴

出自は美濃の土岐氏支流とされるが、前半生は謎に包まれている。足利義昭と織田信長の仲介役として登場し、信長に仕えることとなった。丹波攻略で功績を挙げ、坂本城・亀山城の城主に。教養人として知られ、連歌師・里村紹巴とも交流があった。

1582年6月2日、本能寺の変を起こし信長を討つ。しかし、味方に期待した細川藤孝・筒井順慶らの支持を得られず、山崎の戦いで秀吉に敗北。敗走中に小栗栖で落武者狩りに遭い落命。天下人であったのはわずか13日間(三日天下)であった。

性格・人物像

知性と教養に優れた文化人。連歌・茶道に通じ、領国経営でも善政を敷いた。丹波の民からは名君として慕われた。一方で、謀反の動機は怨恨説、野望説、黒幕説など諸説あり、真の人物像は今なお謎のベールに包まれている。

名言

  • 「ときは今 あめが下しる 五月哉」(愛宕百韻の発句・謀反の予告とも解釈される)
  • 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」(辞世の句)
  • 「仏のうそを方便といい、武士のうそを武略という」

トリビア

  • 本能寺の変の直前に愛宕山で催した連歌会(愛宕百韻)の発句が謀反の予告だったと解釈されている。
  • 光秀が生き延びて天海僧正になったという「光秀=天海説」がある(否定的だが根強い人気)。
  • 丹波亀山(現・亀岡市)では今も「光秀公」として敬われ、毎年「光秀まつり」が開催される。
  • 「三日天下」は実際には13日間だが、短命政権の代名詞として定着している。

歴史的議論

本能寺の変の動機は日本史最大の謎の一つ。怨恨説(信長からのパワハラ)、野望説、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、長宗我部問題説(四国政策の転換で面目を失った)など多数の説があるが、決定打となる史料は見つかっていない。近年は複合的要因説が主流になりつつある。

関連する城

坂本城、亀山城(丹波)、福知山城

最期

1582年6月13日、山崎の戦いで敗れた後、坂本城を目指して敗走中、小栗栖(おぐるす・現京都市伏見区)で落武者狩りの農民に竹槍で刺され落命したとされる。享年55(67歳説もあり)。

参戦した合戦

人物関係

主従

敵対

親族

同盟

よくある質問

Q. 明智光秀の出身はどこ?

明智光秀は美濃(現在の岐阜県)の出身です。

Q. 明智光秀の代表的な戦いは?

明智光秀は金ヶ崎の退き口、比叡山焼き討ち、本能寺の変、山崎の戦いに参戦しています。

Q. 明智光秀の異名は?

明智光秀は「智将十兵衛」と呼ばれています。

Q. 明智光秀の最期は?

1582年6月13日、山崎の戦いで敗れた後、坂本城を目指して敗走中、小栗栖(おぐるす・現京都市伏見区)で落武者狩りの農民に竹槍で刺され落命したとされる。享年55(67歳説もあり)。

Q. 明智光秀の名言は?

「ときは今 あめが下しる 五月哉」(愛宕百韻の発句・謀反の予告とも解釈される)

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